the Bible




1.

「で、なんで僕たちは追われるんだ?」
「細かいことは気にしない。モテなかったりするぞ」
 台詞の合間にも、絶え間なく銃声。
 砂漠の真ん中で、巨大な石の影に隠れ、額に盛大に青筋を浮かべているレイを、ハルトは軽くからかう。
 ぱし、ぱしっと、近くの砂に弾丸がぶつかり、細かい砂が舞い上がる。
「どうやら、今日は記念すべきブラックリスト掲載日らしいな」
「嬉しくない!!」
「そもそもだなぁ、追われない方がおかしいと思わねーのか。トップシークレットを知ったわけだし…………?」
 異変に逸早く気付いたのはハルトのほうだった。
 今までとは別の方向から、銃声?
 そして、背にする岩壁の向こうから確かに伝わる動揺。
「人の縄張りを勝手に荒らすもんじゃないわよ? 人間って奴は、動物のルールも分かってないみたいね!」
 この場に不似合いなほどに生き生きした女の声。その直後に爆発音。
「この声……」
「え?」
 自分の隣で、ハルトが珍しく青ざめているのに気づき、レイは聞き返す。
 しかし当のハルトは、レイの声などお構いなしに頭を抱え、「そう言えばここら辺は……」、「でも運がない」などとぶつぶつ言っている。
 やがて、銃声が止み、さっきまでのことが嘘のような静寂が戻ってきた。
 ざくっ。
 砂を踏む音が徐々に近づいてきて、レイは反射的に身構えた。
 岩壁に手をかけ、少し小柄な人影がこちらを覗き込む。
 砂漠の太陽が容赦無く降り注ぎ、レイのほうからは相手の顔をみることは出来なかった。
 強烈な日差しに、きらりと栗色の髪が光沢を放った。
 彼女は身構えているレイと固まっているハルトをちらりと見回してから、目を庇っていたゴーグルを頭へと押し上げた。
「お兄さんたちどう? 乗ってく?」


            *


「全く、ツイてねぇ。この近くにお前がいるって分かってたら、絶対にさっさと引き上げたんだけどな」
「尻尾巻いて逃げたの間違いでしょ」
 ざりざりと砂を噛みながら、何処までも続く砂漠を疾駆するジープの後部座席で、ハルトが大げさに溜息をついた。
 運転席の女が、鼻で笑ったと同時に吐き捨てる。
「なんだと!?」
「……あんた、あたしに借りがあるの、忘れたわけじゃぁないでしょうね?」
 口元にニヤリと笑みを浮かべ、彼女はバックミラー越しに後部座席のハルトへ視線を送る。
「これてまた貸し一つね。金で払うか体で払うか、じっくり考えといてね」
「う、運転代わりましょうか……」
「結構よ」

(ハルトが負けてる……)
 呆然とそのやり取りを見つめて、レイは、知らず知らずのうちに彼女に羨望の眼差しを送っていた。
 あの、自己中心的でかなりマイペースなハルトを翻弄できるというのは、只者では無い。
 栗色の髪と瞳を持つ二十歳ぐらいの女性は、フレアと名乗った。
 どうやらハルトと同業者らしい。

「見たから分かると思うけど今現在俺たち追われてんだ。足が欲しい。手配してくれるか?」
 もうここまで来たら、借りがひとつふたつ増えようと同じと思ったらしいハルトは、開き直ったように頭の後ろで腕を組み、背もたれに体重を預けた。
「高いわよ」
「相変わらずがめついな」
「あんたとどっこいどっこいだと思うわ。ま、いいけど。とりあえず街に戻るから、買い物の荷物持ちぐらいは付き合いなさいよね」
 ぐん、とジープが加速する。そこでしばらく、会話が途絶えた。
 不意に視線を感じて、レイは周囲の砂漠から視線を戻した。
 バックミラー越しに、フレアと一瞬だけ目が合う。直ぐさま向こうから逸らされる。
 さっきから、どうも避けられているような気がする。
 言葉を交わしたのは自己紹介のときぐらいだ。
「フレア」
 不意にハルトが彼女を呼ぶ。言葉は返さず、フレアは視線だけを寄越した。
 ずけずけとものを言うハルトが、躊躇っている。空気が少し沈んだ。やがて観念したように、声を絞り出した。
「"ヴィー"は?」
「………………死んだ」
 小さく静かで、針のように鋭い一言だけが、返った。


            *


「失礼致します」
 ぎぃ、と軋む音を立てて、重い扉を押し開く。わずかな隙間の先から、色とりどりのガラスが見えた。
 均等に並べられた長椅子。白で統一された壁。目の前に真っ直ぐ伸びる、絨毯。その先。
 一段高くなったところに祭壇。
 祭壇の上に掲げられているのは十字架だった。
 丁度斜めに昇った太陽が、遥か上方にあるステンドグラスに注ぎ、床に綺麗な絵を描いていた。
 聖堂に踏み入った男の声に、祭壇にいた人影が振り返った。
 太陽の光を浴び、その金の髪が輝く。
「……どうした」
「例の二人の処分、伺いたく……」
 男は、漆黒の聖服を翻し、祭壇から降りる。金の髪に青の瞳。その彫刻めいた美貌は神に愛された証とも言われた。
「ひとつ聞くが、ガイアズメールの秘密を知り、生き残ったものは?」
「……いえ」
「それならばもう答えは出ているだろう」
 報告に現れた男の前で立ち止まり、頭ひとつ分ぐらい高い相手を見上げ、聖服の男は言った。
 眼差しに宿るのは絶対零度。
「消せ」
「……はい、大司教」
 自分より身長の低い相手に見上げられながら、心の奥底まで支配されるような恐怖感に取り付かれ、慌てて男は踵を返した。
「もうひとつ。"バイブル"の回収は」
 背中に突き刺さった冷たい問いに、男は相手のほうを振り返ることすらできず、震える声だけを返した。
「未だ、発見できておりません」
「そうか」
 大して興味のないように言い捨て、ラジエル・エレアザールは、慌てて聖堂を出て行く男の背中を見送った。



2.

「俺はこんなに買い物するとは聞いてない」
「言ってないから当然じゃない?」
 両腕から溢れんばかりの荷物を抱え込んで、ハルトがぼそりと呟いた。
 聞きとがめたフレアが、さも当然のように切り返す。
「……別に荷物持ちが嫌なわけじゃねぇよ。俺が腑に落ちないのは」
 よっ、と腕からずり落ちそうになった荷物を抱えなおし、ハルトは、不審そうに自分を見ているフレアと目線を合わせる。
「何で"俺だけ"なんだ、ってことだ!」
「あの、やっぱり僕も半分、持とうか?」
 荷物に埋もれそうなハルトの横で、手ぶらのレイが済まなそうに声を掛けた。
 差し出そうとした手を、横から赤いマニキュアにコーティングされたフレアの手が遮る。
「いいの」
 にっこり笑顔で断言されて、レイは腕を下ろした。
「なにが『いいの』だ、よくねぇよ!」
「……あたしに借り作ってるのはどこの誰?」
 さっきとは全く違った質感の声音に、ハルトの赤い瞳が怯む。
「スミマセン」
「分かればいいのよ」
 くるりと笑顔に戻ったフレアは、市場を縫って歩いていってしまう。
 取り残された二人は、何故か気まずい雰囲気の中で視線を交わす。
「ハルト、お前一体、何したんだ?」
「本人の名誉のためにここはノーコメントでいさせてくれ」

 本人達は至極真面目でも、周りからしてみればかなり間抜けな会話を交わしているうちに、フレアが戻ってくる。
「じゃあレイ……くん?」
「レイでいいよ」
「じゃあレイ、これ持ってね」
 と、フレアがレイに差し出したのは、赤いバラの花束だった。
「これだけはね〜。獣には似合わないからね〜。やっぱり綺麗めの子が持つべきよ」
「オイコラ、なに勝手なこと言ってんだ」
「あんたがケダモノ以外の何に分類されるって言うの」
「なんだと!? 久しぶりに会っても相変わらず失礼な奴だな!!」
「じゃあ、自分でバラが似合う自信ある?」
「……」
「決定〜!!」
 勝利の声をあげるフレアに、ハルトはがっくりと肩を落とした。
「ハルト……」
 あまりの落ち込みように可哀相になったレイが声を掛けるが。
「慰めるな! 優しさの安売りは時に人を傷つけるんだぞ!!」
 などと、訳の分からないことを言われてしまう。
「でもなんでバラなんだよ?」
 立ち直りの早いハルトが、次の目的地へと向かうフレアの背中に問い掛けた。
「"ヴィー"が好きだったの」
 抱えたバラがかさかさと鳴る音に混じって、はっきりと聞こえたハルトの息を呑む音。
 そのあとに訪れた沈黙は、レイにとっては居心地の悪いものだった。

 同じ場所に同じ日に捨てられ。
 ほぼ毎日一緒に過ごした幼い頃。
 しかし忘れてはいけないのは、そんな二人であっても、離れて暮らした何年かの隔たりが。
 確かに存在するという事実だった。

(あれ、でもこの近くって……)
 ジープなどで移動してきたからこの街がどこかは分からなかったが、そこここに出ている看板を見て、覚えのある名前だと気付く。
 見覚えがあるどころか、ここは……。
「レイ!?」
 甲高い女の声が背中に刺さる。
 自分のことでは無いかもしれないとは思いつつ、レイはゆっくりと振り返った。
 そこには、長い黒髪の、シスターの服を纏った女が立っていた。
「レイでしょう!? やっぱり! え? 隣にいるの……もしかしてハルト?」
 盛大な荷物に埋もれているハルトには、さすがにすぐには気付かなかったようだ。
 自分の名前を聞きとがめて、ハルトもなんとか振り返る。
「やっぱり!! 憶えてる? ユリよ!!」
「え……? ユリ!?」
 普段なら絶対に思い出さない名前が、この街のせいだろうか、すんなりと転がり落ちてきた。
 彼女と一緒に過ごしたのは、ほんの数年なのだが、やはり生活を共にしていると、印象は濃い。
 だが、女というものは恐ろしいもので、数年会わないだけでも随分と変わってしまうものだ。
 ……とはいえ、繰り返すようだが一緒にいたのが幼い頃のほんの数年なので、変わらない方がおかしいといえばおかしいのだが。
 同じ孤児院にいた少女だった。
「おー。久しぶり」
 荷物の中で身動きが取れないハルトは挨拶だけをよこす。
「わぁ、すごい久しぶり! ハルトは時々見てたけどレイは孤児院を出たっきりだから」
「時々?」
 なぜ、というようにレイがハルトを振り返る。
「コイツが根城にしてるから分かるだろ、ここいらはちょっとした拠点なの。穴掘りのな」
 塞がっている代わりに顎でフレアを指し示し、答える。
「私、あの後ずっと孤児院でお手伝いしてるの。でね、ハルトったら時々物持って遊びに来てくれて……」
「オイ、ユリ! 黙れッ!」
 顔を真っ赤にして慌ててハルトが遮るが、後の祭り。
「へぇ〜」
 からかうような笑みを浮かべた、レイとフレアの視線が突き刺さる。
「ハルトも随分カワイイことするじゃない」
「畜生〜、今日は厄日だ……」
 もうどうにでもしてくれ、心の中でハルトは吐き捨てた。
「あたしはこれからいつもの酒場に行くけど、可愛いハルトくんは里帰りでもしてきたら? あ、とりあえずジープに戻りましょ。村まで送ってってあげるから」

 そうだった。
 この街は、二人が育った孤児院から、少ししか離れていない場所にあるのだ。
 中等学校に上がるために孤児院を出てから、もはや10年近い年月が経っている。
 "生まれ育つ"以上にたくさんの思い出がある場所。
 レイの胸は嬉しさとも少し違う、何とも言えないざわついた気持ちに支配されていた。


            *


 暗い暗い場所にいる。
 不健康な蛍光灯の灯かりの下。
 その薄明かりに慣れた瞳は、別段何をするにも困らない。
 適応というよりは、退化かもしれない。
 人間の記憶とは、なんて曖昧なものだろうか。
 あの頃は、そんなことばかりを考えていた。


            *


「まぁレイ……!」
 感極まった言葉と共に、皺の多い暖かい手が伸びてきた。
 記憶よりも幾分か小さくなったような院長の体に、何故だか自然に涙腺が緩む。
「久しぶりねレイ。ハルトも2年ぶりぐらいかしら……。訪ねてきてくれて嬉しいわ。ユリ、お茶を淹れてちょうだい」
「はい、院長」
 記憶の中と何ひとつ変わっていないはずなのに、何だか世界が"狭い"。
(当たり前か。体ばっかりは、大人になったもんな)
 ずっと暮らしてきた思い出の空間を"狭い"と感じてしまったことに少し寂しさを感じながら、レイとハルトは勧められるままに椅子に座る。
「あれからあとはずっとカルチェ・ラタンに?」
「はい」
 ……他愛のない柔らかい会話はそれからしばらくの間続き、そして……。

「何で俺たちは倉庫の掃除なんてしてるんだ?」
「……口より手を動かせよ」
 院長の笑顔に押し切られた二人は、地下倉庫の掃除をしていた。
「しっかしまァ……」
 床に積み上げられている本やら何やらを持ち上げ、ハルトが嘆息する。
「男手がないから仕方ないといえば仕方ないけどな。チビどもに任せてもたかが知れてるだろうし」
 ハルトは、地下倉庫のひんやりとした壁に立てかけられた本棚に、手に持った本を大きさ順に並べてゆく。こういうところはなかなかマメな男だ。
 しかし、あるところに来て、ふと手を止めた。
「……まだあったのか」
 てっきり処分されたものだと思っていたのに。
 順不同に本を並べ終えてしまうと、一番隅に入っていた頑丈な分厚い本を引っ張り出した。
「ハルト……」
 本当に集中力がない奴だ、とレイが呆れたように視線を送ると。
「それ」
「んー……」
 冷たい床に座り込んだまま、ハルトは生返事だ。
 ランプ一つの薄暗い空間に、ぼんやりと浮かび上がる一対の黒い羽。光の当たり具合で、瑠璃色のような、翡翠のような光を放つ。
 カラスアゲハ。
 チョウが好きだと言ったハルトが、一番好んだ種類だった。
「これ、神父に貰ったやつ」
 ぱたん。と図鑑を閉じ、『よっこいせ』と少し年寄りくさい掛け声をかけながらハルトが立ち上がる。
「イイ本なんだな。全然古くなってねぇや、……うわっ!」
 ぽんぽんと、張り付いた埃を払ってるうちに、弾みで本が手から滑り落ちてしまう。
 とっさに身を引き、足に落ちることだけは回避するが。

 ガコッ。

「がこっ?」
 明らかに何かが割れたか砕けたかの音に、レイが眉をひそめる。
 固まっているハルトの代わりに図鑑を拾い上げ、明らかにくぼんだ場所を見つめる。
「これは、俺が、悪いのか?」
 破損した箇所とハルトの顔を見比べるレイの、非難するような視線にハルトが焦る。
 慌ててしゃがみこんで、破損した場所を覗き込む。
「あ、元々ほらここの下に何かあるみたいだぞ? ほら、俺のせいじゃね…………」
 かたかたと、石畳の石を持ち上げたハルトの手が、止まった。
 取っ手が見える。
 伸ばした指が、わずかに浮き上がった取っ手を握る。そのままグッと上へと引っ張ると、ぷしゅうと気の抜けた音と共に、白い煙が床を這うように流れ出した。
「な、なんだよそれ……」
「保存用のケースだ」
 ハルトの赤い双眸が、スッと細められる。値踏みするような鋭い眼差しは、発掘者のそれ。
「古代のものを空気に当てずに保存しとくもんだ」
 どうしてこんなところに……。

―――……て……。

 白い煙の中に伸ばそうとした手を、ハルトはふと止める。
 つきん、と。耳の奥、脳髄のそのまた奥で、響きあう微かな"痛み"。
(まただ)
 少し苦しげに眉をひそめたハルトの表情を、ほのかな光の中でレイは見逃さなかった。

―――出して。

 白い霧の奥から、直接この頭の奥に語りかける"声"。
 止めた手を再び伸ばし、ハルトは、そのケースの中から保存されていた"何か"を掴み出した。

 黒く分厚い、しかしかなりくたびれた本。
「聖書?」
 上から覗き込んだレイが、その形を見て漏らした。既存の聖書によく似ている。
「ああ」
 生返事のまま、ハルトはぱらぱらとそれを捲り始めた。乱雑なようで、かなり丁重なその手つきが、ハルトの性格そのものを表しているように思える。

「……なぁ、レイ」
 しばらくその作業を続けた後。
 聖書と思しきものから視線を上げないまま、ハルトがレイを呼んだ。
「"イエス"って誰だ? お前知ってるか」
「なに……?」
「"イエス"だよ。見てみろって」
 言われるまま、目の前に差し出された紙面に視線を滑らせる。
 薄い紙にびっしりと。細かい文字が並んでいるのは、普通の聖書と一緒だ。
 ただ違うのは、至るところに赤いペンなどで書き込みや修正がなされているところだった。
 赤い二重線の下に、確かに人の名と思しき"イエス"の名。
「知らないよ。習ったこともないし、第一、聖書にそんな名前出てきた覚えがない」
 記憶を手繰り寄せても、引っかかるものは何ひとつない。
 聖書に関してなら、レイの意見を全面的に信用できる。何しろ専門に学んでいる人間だ。
「……やばいな」
 独白がぽつりと零れ落ちる。
 何が「やばい」のか。問い掛けるようなレイの視線を綺麗さっぱり無視して、ハルトは口元に手を当てる。
「また厄介なものに首を突っ込んだかもしれない」
「どういうことだよ……」
「とりあえず、これはあのケースに入れられていたってことから、かなり古いものだと考えられる。そして間違いなく、聖書だろうな。じゃあ、例えば。本当に例えばこれが、"昔の本物の聖書だったら"?」
「え…………?」
「"誰かがこの聖書を元に、今の聖書に作り直したんだとしたら"?」
 ハルトが並べる推論を、必死にレイが頭の中で組み立てるうち。ハルトは「なぁんてな」と呟き立ち上がった。
「大胆な仮説を立ててみまシタ。そうそう機密事項にばっかりぶつかってたまるか」
 せっかく形が見え始めた砂の城を、大きな波が突き崩した時のように。
 形になり始めた推論が、ハルトの一言でがらがらと崩れていく音を、レイは聞いた気がした。

「さっさと終わらせちまおうぜ。日が暮れる」
 手にした聖書を脇へ寄せ、残りの本を片付け始める。しかし、そのハルトの動作には、先ほどのような丁寧さはなく。
 ただひたすら流れ作業のようにあちこちに転がる本を本棚に詰めてゆくだけだった。

 もしも、この聖書を元に今の聖書に作り直したとしたら。
 部屋の隅に立ち、天井の隅に張った蜘蛛の巣を払いながら、レイは反芻する。
 今、この社会を支える宗教が、誰かが作り直したものだとしたら。
 一体それは何を意味するのだろう?
 遥か昔から、この世界の礎であったという、宗教に対する揺がない信頼にヒビが入る音。
 聞くまいと耳を塞いだ心にも、その音はしっかりと響いた。


           *


「―――"バイブル"の反応が出ました」
「どこだ」
「東です。シャトーの街の傍にある、キトの村です」


           *


 からん。
 少し寂れた酒場の入り口で、来客を告げる鐘が鳴った。
 店の中に、昼過ぎからずっといる女性を除いて客はなく、カウンターでのどかにグラスを磨いていた、あごひげを軽くたくわえた店主が、顔をあげて新しい客を見た。
「やぁ、久しぶり」
 磨いていたグラスと布を置き、店主はわざわざカウンターから出て、その新しい客を迎えた。
「ちわっす」
 それに軽く片手を上げて答えると、店の隅にいた女が顔をあげた。
「実家に帰ったってのに、夜遊びしてていいの?」
 琥珀色の液体が半分ほど注がれたグラスを軽くあげて見せて、フレアはハルトに声を掛ける。
「野暮なこと言うなよ。せっかく美女の隣でお酒をと思ったんですよ、と」
「あら、お世辞でも結構嬉しいわね」
 向かいに腰掛けたハルトに、フレアはくすりと笑って見せて。
「あんたがキツネの罠に嵌って動けなかったことは忘れてあげる」
「……いい加減それは忘れろ」
 当時の恥ずかしさを思い出し、ハルトはやさぐれた声をあげる。
 それからあと。しばらく沈黙が続き、グラスの中の氷がからりと音を立てた。
「……あの子でしょ。あんたが時々話題にした"兄弟"って。あんまりあんたが言うとおりだから、すぐに分かっちゃったわ」
 手に持ったグラスをからからと回して、フレアが口を開いた。
「謝っといて。そっけない態度取っちゃった。駄目ね。あの色見ると……」
「金に緑……か」
「あのキレーな金髪がね」
「やっぱりヴィーは、病気が?」
「うん。あたし結局、何もしてやれなかったわ」
「そんなことないだろ。お前はよくやってたよ」
 店主が出してくれた酒を口に運びながら、ハルトが呟く。
「なにそれ。泣かせようったって、そうはいかないんだから」
 頬杖で額と目を覆い、フレアは俯いた。声が少し震えていた。
「で?」
 残りの酒を一気に煽り、フレアの隣に置かれたバラの花束を掴むと、ハルトは立ち上がった。
「え?」
 少し潤んだ瞳を上げ、フレアはハルトの咄嗟の行動に不思議そうな顔をする。
「連れてけよ、ヴィーのところに」


            *


 ぎぃ。
 思った以上に大きな音が響いて、びくりと足が竦む。
(でも、昔はもっと大きく見えたのにな……)
 片手で触れた木の扉を見上げ、レイは知らず知らずのうちに溜息をついてしまっていた。
 時の流れを感じる。ここそこで。
 目の前に広がるのは薄暗い空間。
 整然と並んだ、長椅子。
 その一番後ろの端に、腰掛ける。
(ここでよく……)
 本を読んでいた背中。孤児院にいて、捨てられたという思いがあっても。
 ここに"帰る"ことを覚えていたから、寂しくなかった。
 振り返り、迎えてくれるひとが、いた。

 高い天井。真っ直ぐに続く絨毯の道。その先の祭壇。十字架。ステンドグラス。
 その横にある小さな扉の奥の部屋。

「誰かいるんですか?」
 その扉が図ったように開き、奥から聖服を纏った人影が出てきた。
「あ、すみません、こんな時間に……」
 まさか気付かれるとは思っていなかったレイは、慌てて長椅子から立ち上がり。
 固まった。
「……レイ?」
「貴方は……」
 淡い栗色の髪を長く伸ばし、背中でひとつに束ねたその神父の姿に、レイは声を失う。
 レイは、この人物を知っていた。

 幼い頃の記憶が、津波のように急激に押し寄せ、溢れ出した。
 あの日。村はずれの道に出来た人垣の向こうに。
 血だまりの中に倒れた"あのひと"と、赤い色に染め上げられたナイフを握り締めて震えていた、彼と。
―――レイ! 見てはだめ!
 慌てて傍にいた大人が立ちふさがったけれど、その情景を忘れることなどとても出来ない。
―――神父?
 血だまりの中。横たわり、動かない。その。
 体。

「ストーンさん。貴方が、後任の神父を……?」
 あのひとの?
 問い掛けると、微かにステンドグラスから差し込む月明かりの中で、彼は苦笑した。
「……呆れるでしょう?」
 長く伸ばした髪が、わずかに肩にかかっている。
 ストーンは、幼い記憶のまま、繊細な面影を残していた。
「ここで私が教えを説く資格なんて、本当は欠片もないんですよ」
 ゆっくりと近づいてきたストーンは、レイの前に自らの左手首をさらした。
「見えますか」
 ぼんやりとした薄明かりの中、ストーンが差し出した白い手首には、幾筋も幾筋も、切った痕があった。
「昔の傷です。意味もなく自分で傷をつけた。けれど、ファスト神父の生命を奪ったあと、一度も切る気にはなれなかった」
 逃げることすら、罪なような気がして。
 溢れ出し、両手を濡らしたあのひとの赤が、忘れられずに。
「レイ、貴方は……」
 その左手をレイの肩に乗せ、ストーンは今にも消えそうな声で呟いた。
「私を憎んでくれますか」
 発せられた言葉の意味を汲み取れずに。レイはわずかに目を見開いた。
「あのとき、誰もファスト神父を責める人はいなかった。同時に、私を責める人もいなかったことを、頭のいい貴方なら覚えているでしょう。だから私は、自分を責め続けるために、ここにいる」
 そうだった。ストーンはあのあと、精神病院に送られたと聞いた。
 以前からの自傷行為も手伝って、精神病の類と判断されたのだった。
「後悔と、罪の意識と、心の痛みで私は、狂いそうだった。いや実際、狂っていたのかも知れない」

―――しょうがないわ。
―――誰も悪くない。
―――ファスト神父も悪くない。貴方も悪くないわ。

(どうして?)
「汚い言葉で罵倒して欲しかった。蔑んで、罵って欲しかった」
 ストーンは、レイの肩に両手を置き、うな垂れた。
 肩に触れる両手が小刻みに震えているのを、レイは肌で感じた。
 色素の薄い髪が、さらりと床に向かって零れ落ちる。
「許され続けるのは、もう疲れた……」

―――ねぇレイ。神父と言う職業は、人を癒すものだと言うけれど、本当にそうなのだろうか。
 許しは、決して癒しと等価値では無い。
 許しは時に、痛みにもなる。
「ストーンさん……」
「レイ、ごめん」
 レイの肩に額を乗せて、嗚咽と共にストーンが零す。
 まるで譫言のような、懺悔。
「ごめん……」
―――本当は、私たち神父の方がいつも、癒されているのかもしれない。
 重みと想いを受け止めながら、レイは、あのひとの言葉を思い出す。
 いつも真っ直ぐで、それでどこか、いたい言葉を。
―――聖書や十字架がなくても、人は救える。

 それなら。
 ファスト神父。それなら一体。
 宗教は、教会は、教義は、聖書は。
 一体何のためにあるのでしょうか。

 救いとは。
 一体。



3.

 理想は時に痛みを伴う。
 信念は時に傷をもたらす。
 傷をつけなければ"膿"を出すことは出来ないと。
 そう言ったのは一体、誰だったのだろう?


            *


 お互いベッドに入る姿は見ていないが。
 朝にはお互い用意された寝床の中にいた。

―――これを、貴方に差し上げてもいいですか。

 ベッドの上で体を起こしたレイは、枕元に置いてある古ぼけた日記帳に手をやった。
 しっかりと鍵をかけられている。栞代わりの紐の先に、銀色の小さなカギもついていた。
 ひらけなかった。

―――ファスト神父の遺品です。私が持っているより、貴方が持っていたほうがいいと思います。

「ホラ、起きなさ〜い」
 ばたんとドアが開き、フレアが顔を覗かせた。
「って、レイはもう起きてたのね」
 反射的に日記帳をフレアの視界から見えない場所へ―――布団の中へ―――しまっている自分に気づき、レイははっとした。
「足の用意が出来たんだけど……、まぁいいわそこの馬鹿は寝かしといて。レイに少し、話しておきたいことがあるの」
 真摯な瞳で促すフレアに、レイは頷くことで答え、ベッドを降りた。


 ぱたん。
 レイがドアを閉めた音。足音が遠退き、やがて再び静寂が戻る。

―――助けて。

 睡魔を容赦無く破る鈍痛。頭の内側にそれを感じて、ハルトは薄く目を開いた。
 女の声……に聞こえなくもない。

―――私に自由をちょうだい。

 ぼんやりと見つめる、部屋の隅に置かれた古ぼけた机の上。
 黒い分厚い背表紙。聖書、のようなもの。

―――いますぐ。

 徐々に視界に霞みがかかってゆくような気がする。
 がやがやと、ばたばたと。走り回る子供たちの声や足音も、壁を隔てた向こうのように少しずつ遠退く。
 何かが入ってくる。寝起きのぼんやりとした頭で、ハルトは考える。
 不可抗力。死角から。
 するりとこの頭の中に、体に。
 こころに。

―――たすけて。

 "神の声"なんて、本当はなかったじゃないか。
 微かに残る冷静な自分が走り出そうとする衝動を宥めようとする。けれど。

 瞬きも忘れて、ハルトはそれを見ていた。視線を外せないまま、ベッドの上で体を起こす。
 まるで自分の体では無いように、足が手が、動く。
 机の前に立ち、地下倉庫から発見したものに、手を伸ばした。


―――"燃やして"。


            *


「ごめん!」
 教会の裏にある墓地。赤いバラが供えられている墓の前まで来て、フレアはレイに両手を合わせて謝罪した。
「え……? よく、分からないんだけど……」
「昨日会ったとき、露骨に目とか逸らしちゃったし、気分悪くしてると思ったから」
 片目だけを薄く開いて、フレアはレイの表情を伺っている。
「レイの容貌が、この子に……ヴィーグにそっくりだったから、つい。ホントごめん」
「いや、それは別にいいんだけど、やっぱり何だか、話が見えない……」
「あ、そっか。全然説明ナシだもんね」
 そこでようやくフレアは、自分が一切の説明を割愛していることに気付いた。
 レイはレイで、ハルトとフレアの会話に出てきた"ヴィー"という人物の容貌が自分に似ていた、という話しか分からない。
 昨日の会話と目の前の墓を見て、どうやらその生命は既に失われているらしいが。
「ここにいるヴィーグはね、あたしの息子」
「へぇ…って、え!?」
 容姿的に自分とほとんど年が違わないはずのフレアの口にした「息子」という単語に、レイは一瞬置いて過敏反応する。
「あ、違うの。血は繋がってないんだ。あたしはヴィーグをこの隣のシャトーの街で拾ったんだ。正確には保護した……ってカンジかな」

―――おかーさん。

「突然服の裾つかまれてそんなこと言われてさ。びびるじゃない? あんたに似てるってくらいだから、やたら可愛い子でね。シャトーは結構広い町だから、迷子になったのかと思って、親探しなんかしちゃったんだ。それでヴィーグの親を知ってるって人をやっと見つけたんだ」
 墓を愛おしそうに撫でながら、フレアはゆっくりと話す。ひとつひとつの思い出を噛み締めるように。
「ヴィーグの本当の親は、すっごい貧乏なんだって。で、ヴィーグはすごい難しい病気にかかってて。絶対に大人にはなれないって言われてたみたい。薬を買って永らえさせてやることも出来ないし、それなのに傍にいるのは辛いって、置き去りにしたんだよ。2つか3つの子供をさ……」
 眩しいものを見るように、フレアの瞳が少し細められる。
 遊び盛りの女の表情が、そのときだけ"母親"になった。
「すっごくむかついて、"じゃああたしが貰って帰るから!!"なんて、弾みで言っちゃったんだ。はじめは育てるつもりとか全然なくて、でも、この子本当に人懐こいんだ。見てるうちに、可愛くてさ」
 愛しくて。
 儚い炎を精一杯燃やして、小さな体で必死に生きている姿が切ないほど眩しくて。
「あたしそれまで結構、斜に構えてたっていうか、あんまり真面目に生きたことなかった。でもヴィーを守らなきゃって思ったら……なんでも出来る気がした。とりあえず少しでも苦しみを消してあげたくて、永らえさせてあげたくて、薬を買うためにあたし、盗掘してたんだ」
 法の境界線を飛び越え、リスクと常に背中あわせで。
 けれど、線を越えるだけのリターンもある。
 そうまでして。守りたかった。
「医者に聞いたら、7つまで大きくなれたことも奇跡なんだって。それにヴィーは全然苦しまなくて、朝布団の中で冷たくなってた。よかった。せめて、苦しんで欲しくなかったからさ……。あたしの自己満足だったかもしれないけど。せめて少しでも長く、生かしてあげたかったんだ。生まれてきた世界を覚えておいて欲しかったんだ」
 十字を模した墓標に額を押し当て、フレアは嗚咽を噛み殺した。
 口唇を必死に噛み締めるフレアの頬を、静かに涙が道を作った。
「血なんか、繋がって、なかったけど。あたし本当に、本当に―――」
 愛していた。
 口にせずに消えたフレアの言葉は、痛いほどレイの心に刺さった。
 しばらく声もなく涙したあと、フレアは軽く墓標に接吻けて顔をあげた。
 照れくさそうに笑って涙を拭う。
「ごめんね。こんなつもりじゃなかったんだけど。とにかく謝りたかったんだ。さてと。足も出来たしそろそろあいつも起きてるだろうし。戻りますか」
「こっちこそ、話してくれてありがとう」
 まだきっと、記憶の蓋を開けるには痛みを伴う思い出だろうに。
 労わりを込めたレイの優しい瞳に、フレアは目を見開いて。そのあとすぐに、泣きそうな顔で笑った。


             *


「じゃああたし、ちょっとこれの整備してるから、あの馬鹿呼んできて」
 孤児院の傍に停められた一台のジープの前で、フレアは立ち止まり、車のいたるところを覗き込み始める。
 分かった、と目で合図してレイは、寝室の方へ向かう。
 しかし扉を開け放った先にハルトの姿はなかった。
(どこ行ったんだ、あいつ)
 首をかしげながら、寝室の扉を閉める。
 視界の端に、古ぼけたテーブルが映った。
 その上に乗っていたはずのものがなくなっていたことに、レイは気付かなかった。


 孤児院中のどこを探しても、ハルトの姿はなかった。
 首を傾げつつレイは、庭の辺りを探そうと、玄関から外へ出た。
 少し建物から離れてみて、ぐるりと辺りを見渡すと。
 裏の方から細いけむりが上がっているのに気がついた。
 裏手には、井戸がある。
(そう言えば昔ハルト、あそこで聖書に火を点けたんだっけ)
 細い煙を眺めて、ふとそんなことを思い出す。
(そうそう。ちょうどあんなふうに煙が……)
 ざわり。
 過ぎた空腹が与える、あの何とも言えない違和感に似て。
 腹の奥から湧き上がった言葉では言い尽くせない予感に、レイは息を呑んだ。
 ごくりと上下した咽喉から体の奥へと落ちてゆく直感が、足を動かした。
「ハルト!」
 気付いたら叫んでいた。
 裏へと周り、煙の出所を探す。すると。

 薪が勢い良く爆ぜ、火の粉がぱちぱちと舞い上がり。炎が勢いよく空に向かっていた。
 その傍にしゃがみこみ、ハルトはどこか空ろな目でその炎を見つめている。手にしているのは。
(あの"聖書"―――!)
「ハルト!!」
 慌てて駆け寄り、今にも炎の中にそれを投げ入れようとしているハルトの腕を掴んだ。
「何してるんだよ!?」
 久しぶりに荒げた声で、咽喉が痛むような気がしたが、この際構っていられない。
 乱暴にその腕を揺さぶると、ハルトの真紅の瞳が焦点を結ぶ。
「あれ……?」
 何度か瞬きを繰り返して、ハルトは間の抜けた声を出した。
 右腕がやけに重い。まだ少しぼやけた頭でそちらを見やれば、自分の腕に必死にしがみついているレイの姿。
「何してんだ?」
「こっちの台詞だよ! 何でこれを燃やす必要が……」
 "これ"という指示語が示すものを視線で探し、ハルトは息を止めた。
 地下室で発見したあの"聖書"。確かにあてがわれた寝室の、机の上にあげておいたはずなのに。
 そもそも、いつの間に裏庭に来ていたのかすら、ハルトには分からなかった。
「それ、お前が持ってろ」
「え?」
 聖書から手を離し、ハルトは井戸に手をかけた。
 投げ入れた桶がしばらくして水に到達し、ばしゃんと言う音を立てる。
 汲み上げた水を、燃え盛る炎へとぶちまける。
 しゅぅと情けない音を立てて、炎が消えてゆく。
 そして再びハルトは桶を井戸の中に投げ入れ、汲み上げた水を頭からかぶった。
 まるで水を浴びせ掛けられた犬のように頭を振って、髪にまとわりつく水滴をある程度払うと、ハルトはレイに向き直った。
 レイは両手で胸にその聖書を抱えたまま、ぽかんとしている。
「"それ"から、ある特定の周波数の、電波が出てる」
 そうとしか考えられない。
 なぜなら。
「脳に直接訴えかける方法で、"それ"を処分させるためだ。軽い催眠状態になる。さっきみたいに」
 ハルトは、頬を伝い落ちる冷たい水を乱暴に拭いながら、昨日口にした自分の言葉を思い出した。
(また厄介なものに首を突っ込んだかもしれない)
 その通りだな。
「考えてみろよ。そんな細工が出来るのはどんなやつだ? "神の声"の本当の意味を知ってる奴じゃぁないのか? そして、そいつにとってそれは、この世界に残ってちゃいけないものなんだ。とりあえずこれが何かを調べて……」
「お二人さん。取り込み中悪いけど」
 ハルトの言葉を遮り、建物の影からフレアが顔を出した。
 微かに笑みを湛えた口元。が、その瞳は冴えた光を湛えている。
 二人は勘で、何かただ事では無いことが起こっていることを悟った。
 フレアは、自らの左胸の辺りを指差して、言った。
「お二人さんのどっちか、それとも両方かは知らないけど。ココに金の十字の刺繍がある、黒い制服の人たちに友達いる?」
「……金十字の刺繍の、黒い制服……?」
 レイが口の中で特徴を繰り返した。一瞬置いて、悟る。
「教会の正規軍……?」
 ぴんぽーん。大当たり。
 フレアの声がやけに渇いて聞こえた。

「とうとう正規軍が動いたか……」
 今まで二人にかかった追っ手は、堂々と身分をさらすような格好はしていなかった。
 せいぜいそこいらのチンピラと言ったぐらいの体で。
 しかし今回は訳が違う。黒い服に左胸に金十字の刺繍は、まごう事なき教会お抱えの正規軍の軍服だ。
「それだけ"これ"が、重要だってことか」
 ハルトは預けたはずの"聖書"をレイから奪い取ると、それをそのまま流れ作業のようにフレアに手渡す。
「え? なによこれ……」
「頼みたいことがある」



4.

 愛し合う想いすら、思想までは統一してくれない。
 擦れ違い、傷つけあう理想は。
 やがて大きな溝を作り。
 それはいつしか大河となって二人を切り離した。
 永遠に。


             *


「喋るなよ。舌噛むぞ!」
 言葉が終わる前に、ハルトは強くアクセルを踏み込んだ。
 孤児院の前に停めてあった、フレアの用意したジープが、きゅるきゅると耳障りな音を立てて飛び出す。
 丘に駆け上ると、少し離れたところに、停まっている車と黒い人影がいくつか見えた。
 その姿を確認すると、ハルトはハンドルを思いっきり横に切った。
 村を離れ、荒野へと移動するために。相手を誘い込むために。

―――シャトーの街の親父さんとこにこれを持ってって、できる限りのことを調べてもらってくれ。
―――あたしが?
―――多分、あいつらの狙いは俺たちとこの聖書だから。一緒に行動するわけには行かないんだ。なんとかこっちで時間稼ぎするから。
―――……高くつくわよ。
―――もう一度キツネの罠にでも噛まれてやるさ。……頼む。

 こそこそとなにやら物をやり取りしながらハルトとフレアが交わしていた会話が、レイの脳裏をよぎった。
 黒い人影がこちらに気付きわらわらと動き始めるのを視界の端に見ながら、今自分を取り巻いている状況を整理しようと頭を働かせるが。
 地面から緑が消え、枯れた大地に変わった頃。
 視界を横切る白い筋に、レイは我が目を疑った。
 途端、急ブレーキで体ががくりと前のめりになる。
 キィィィと耳に痛い軋みを上げ、車体が弧を描くように半回転し、止まる。
 すると、速度を緩めなければ間違いなく当たっていただろうというタイミングで、3本のミサイルが地面に突き刺さり、派手に土煙を上げた。
「ここまで来ればいいだろ」
 二人にしか聞こえない声で、ハルトがぼそりと呟いた。
「それ以上逃げようと思うなよ?」
 後ろで車の止まる音。それと共にやけに間延びした、緊張感のない男の声が聞こえてきた。
 ハルトとレイはジープに座ったまま、振り返りもせずに、背中でその声を聞く。
「ハルト・シラギ、レイ・クレスタ。降りなさい」
 容赦無く呼び捨てにする若い"女"の声に、二人は従う。
(女?)
 恐らく、二人の脳裏をよぎったのは、同じ思いだったろう。
 素直にジープから降りて声のしたほうに向き直ると、こちらに向かって銃を構えている軍人達の真ん中に、銀髪の髪を綺麗に纏め上げた、人形のような顔をした女が立っていた。年は同じぐらいかもしかしたら少し下かもしれない。とりあえず、軍人には見えないが、軍服はぴったりと嵌っていた。
「教会の正規軍の方々が、俺らになんか用ですか」
 白々しくも、ハルトが口にする。
「いいねぇ、威勢がいいのは好きだぜ」
 その女の隣に立っていた、だらしなく軍服を着崩した金の短髪の男が、口笛混じりに揶揄するように言う。
「黙りなさい中佐。任務中です」
 髪とおそろいの瞳をちらりと男に向け、中央に立つ女が冷たく言い放つ。
「ハイハイ」
 呆れたような溜息をついて、30代と思われるその男は、つまらなそうに口を閉じた。
 どうやら女のほうが立場的には上のようだ。自分達の置かれている状況も忘れて、ハルトたちが興味深そうに二人を観察していると、再び女の方が口を開いた。
「ハルト・シラギ、レイ・クレスタ。私たちに"バイブル"を渡し、投降しなさい」
「何のことだかさっぱりなんですけど」
「とぼけても無駄です。あのロックは"特定の遺伝子"にしか反応しないように出来ています。そして現在この村周辺にいる"特定の遺伝子"の持ち主は、ハルト・シラギ。貴方だけです」
 白い細い指先が、無遠慮にハルトへと向けられる。
「知らねぇって言ってるだろ」
 隣に立つレイが思わず感心してしまうほどのポーカーフェイスで、ハルトは言い放つ。
「ジャンヌ、"バイブル"のことは後回しでいい。それより先に訊くことがあるだろう、そこの坊や達に」
 先程の短髪の男が口元をニヤつかせたまま女に促した。
 女はあからさまに嫌そうな顔をして男を見上げると。
「上官を呼び捨てにしないで。アフライド・ゼイン。……でも、貴方の言うことにも一利あるわ」
「そうでしょう。可愛い部下に感謝してください」
 ジャンヌと呼ばれた女は、短髪の男に構うことなく、真っ直ぐにハルトとレイを見据える。
「貴方達は、聖地ファレスタ山脈に踏み込み、教会が守ってきた聖域に触れました。その罪は、生命で贖われるべきものです。しかし、ラジエル・エレアザール大司教猊下のお志によって、道を与えられています」
「どんな道なんだか」
 厭味ったらしく吐き捨てるハルトに構わず、ジャンヌは続ける。
「二人とも、カルチェ・ラタンにお戻りなさい。教会内の、司教クラスの職を約束しましょう」
 レイは、はっと息を呑んでジャンヌを見据えた。慌てて隣を見ると、今までポーカーフェイスを守ってきたハルトも、わずかに目を見張っているのが見える。
 一体これは、どういうことだ?
「……ご親切にどうも。そちらさんの見返りは?」
 なんとか言葉を繋いだハルトに、ジャンヌは表情一つ変えず続ける。
「ただし、記憶にロックを。ある特定の言葉だけ、口に出来なくなります」
「なるほどね"アレ"関係のことは、話したくても話せなくなるわけだ。その代わりに地位も名誉も手に入る……と。ってことはなに? 教会の上層部の皆さんはそれを施されてるってことかよ? 歪んでるな」
「やけにくるくると頭が回る坊やだな。で、どうするんだ?」
 にやにやと笑みを浮かべたまま、冴えた瞳は強い。
 アフライドの促す声に、ハルトは大げさに鼻で笑ってみせる。
「俺に司教なんて似合うもんか。性に合わないことはしない主義だ。―――断る」
 静かで、強い声で。はっきりとハルトが拒む。
「レイ・クレスタ。貴方はずっとカルチェ・ラタンで神学を学んでいた身でしょう。今までの生活と平穏を、むざむざ失う気ですか」
 あまり低くないくせに、ジャンヌの声は芯が強い。心の奥に真っ直ぐ、刺さってくるような。抉るような。
 ハルトは、黙り込んでしまったレイを横目で伺う。
 断らなかったりして。変な予感が頭をよぎった。そして、刻一刻と、それが現実になるような気になってくる。
 レイは元々神学を志していた身だし、今回のことについても半ばハルトが強引に巻き込んだようなことだし。
(オイオイ、頼むよ)
 レイの沈黙が、一時間にも二時間にも感じられる。
「僕が目指すのは……」
 ようやく、ゆっくりとレイが口を開いた。
 服の内側で微かに揺れるロザリオに、服の上から手を乗せる。
「僕が目指すのは、そこじゃない……!」
 どうやら、自分はレイのことを甘く見すぎていたようだ。
 はっきりと拒むレイの声を聞き、ハルトは自分の持った予感を恥じた。
「交渉決裂だな。どうしますか? 大佐殿」
「……応じない場合は、始末せよとのご命令です」
「へぇ、大した奴だな。自分の手は汚さず、部下に反逆者を殺させるわけだ、その大司教猊下は」
「ハルト……!」
 相手の神経を逆撫でするようなことをわざと言うハルトの腕を、横からレイが宥めるように掴むが、すぐに振り払われてしまう。
 はっとしてハルトの顔を見ると、冷めた怒りが見えた。
 このくらい言ってやらなきゃ、気がすまない。そうとでも言うように。

 馬鹿にしてる。
 餌を与えれば、尻尾を振ってついてくるとでも思ってやがるのか。

「貴様……! 猊下を愚弄するか!!」
 今まで全く表情を変えなかったジャンヌの顔に、さっと赤味が差す。
 その変化をハルトは見逃さなかった。
「お姉さんなに、"猊下"が好きなんだ?」
 頭の奥で、冷静なワリにどこかぶち切れているハルトに容赦は無い。
「だからいいんだ? その人の命令だから、喜んで手を汚すわけか。そうでもしなきゃ繋がらないんなら、早めに諦めた方がいいぜ」
 ジャンヌの手がさっと伸び、軍人達の構えた銃を降ろさせる。そのまま腰に下げた剣に手を伸ばし、優美な姿で抜き取った。
「誰一人手を出すな」
 ぐっと低めた声でそう呟き、ジャンヌはハルトを見据えた。
「私が殺す」


            *


 ピッ、と。すんでのところでかわした剣が、頬に線を残した。
 鋭い痛みが走り、少し遅れて血が伝った。
 巻き込まれて切れた黒髪が、さっと風に舞う。
「身のこなしは随分と、軽いようだな」
 冷たい銀の瞳に宿るのは完全な殺気だ。
(まるで人が変わったみたいだな)
 もう既に体と頭が別のところで動いているようだ。
 生への執着が、紙一重で剣を避ける。頭はやけに冷静に、襲い掛かる相手を分析していた。
「ハルトっ……!」
「おっと、綺麗な兄ちゃん、不用意に動くんじゃないぜ。次はお前の番だ。大人しく待ってな」
 ちゃき、と。脇腹に押し当てられた鋼鉄に、レイは息を呑んだ。
 踏み出しかけた足が、反射的に止まる。
 目線だけを隣へやると、相変わらずの笑みを湛えたアフライドと目が合った。
「殺すなら、殺せばいいだろう」
 相手の青い瞳を見据えたまま、レイは言った。もうどうにでもなれ。
「部下は上官の命令に従うもんさ。まァ、今の大佐には何を言っても聞こえないだろうけどな」
 アフライドはわずかに目を細めてジャンヌの方を見やった。

 ある一定の間合いを取り、ジャンヌと向かい合ったハルトは、頬や首などを伝う血をそのままに、肩で息をする。
 かぶった水で濡れていたはずの髪も、もうすっかり乾いていた。
「大佐クラスにもなると、"色々と"知ってんだろ? それでも教会に付くってのか」
 嘘だらけの教会に?
「貴様に何がわかる……」
 ジャンヌの押し殺した声。噛み締めた口唇がわなわなと震えていた。
 冴えた双眸は、いまや、煮えたぎるほどの怒りを湛え。
「貴様に猊下の、何がわかる!!」
 絶叫と共にジャンヌは地面を蹴った。突然のことに、ハルトは動けずに。
 鳩尾に、剣の柄の容赦ない一撃が入った。
 防御の整わない体への一撃に、一瞬呼吸が止まる。
 そのまま仰向けに倒れたハルトの体に、ジャンヌが馬乗りになる。
 起き上がろうとした首に、ジャンヌの左手が絡みついた。
「……それならお前は全部分かってんのか……?」
 狭くなった気道でなんとか空気を取り込み、言葉に変換する。
「分かって、人殺ししてんのか」
「黙れ!!」
 ガツッ。
 剣の柄で頬を横殴りにされ、口の端から血が伝う。
「っ…………」
 口の中に広がる鉄の味に、ハルトが眉をしかめる。
「貴様に……、猊下の気持ちや私の気持ちなど……、分かるものか……!」
 首に左手を絡めつけたまま、ジャンヌは剣を振り上げた。空から容赦無く刺す光が刃に反射し、眩しい。
 目に痛いその光に、ハルトが思わず目を閉じたそのとき。

「こらテメェ! 動くな…っ……」
「何をする、離せ!!」
 突然起こったそのざわめきに、ハッとハルトが目を開くと、振り上げたジャンヌの腕に取り縋っているレイの姿が見えた。
「……愛を説く教会が、何故このような強力な正規軍を、持っているんですか」
「何を……」
「今まで、色々なことから目を逸らし続けてきたけど……、僕にはもう信じられない」
「レイ……」
「教会には、あまりにも矛盾が多すぎる!」
「煩い!! 離せ!!」
 思いっきり振り払ったジャンヌの、剣の先がレイの頬を掠った。

 刹那。

 ドォン……。
 突然上がった爆音に、周囲の全ての視線が音の起こったほうに引きつけられた。
 シャトーの町の方向?
「花火……?」
 振り払われたレイが、地面に座り込んだまま空を見上げた。
 夜ほどは映えないものの、光の粒子が空に舞い上がっては落ちる。次から次から。
 炸裂音と共に。
「レイ!!」
 呆気に取られているジャンヌの腹を蹴り上げ、敷き込まれた体の自由を取り戻したハルトが叫んだ。
「乗れ!!」
 ジープの運転席に飛び乗り、座席の下から取り出した手榴弾のようなものの栓を口で抜く。
 慌てて立ち上がったレイが、後部座席に転がり込むのを見届け、ハルトはそれを後方に放った。

「くそっ……!! 撃て!!」
 ジャンヌに駆け寄り助け起こしたアフライドが叫ぶ。
「駄目です!! 煙幕が……」
 地面に転がった手榴弾から、白い煙がもうもうと立ち上り、視界を遮った。
「ジャンヌ、どうする……」
 腹を押さえて立ち上がったジャンヌに、アフライドが指示を仰ぐ。
「追いなさい……! 逃がすわけには行かないわ」
 容赦無く入った蹴りに、嘔吐感がこみ上げる。
 口の中を満たす胃液の味に、眉をしかめた。

―――それならお前は全部分かってんのか?

 心の奥底を覗き込むような、あの鋭い赫。
 刺し貫かれるように、心が痛んだ。
(私は……)
「ジャンヌ」
 脇腹を抑え、自らのつま先に視線を落とし口唇を噛むジャンヌの耳に、自分の名前を呼ぶ声が滑り込んできた。
 顔を上げ、隣に立つアフライドと視線を交わす。
「迷うな。俺たちは"この道"を選んだんだ」
 普段ならば絶対に見られない、アフライドの真摯な眼差しに、ジャンヌは目を見張り。
 照れ隠しのように目線を逸らした。

「……上官を、呼び捨てにしないで」



5.

「お、見えた見えた!」
 扱いの非常に難しい上官たちから、反逆者の追跡を命じられた。
 何が何だかわからないうちに車を走らせ、もうどのぐらい経っただろうか。
 正規軍の男たちは、どこまでも続く荒野に視線をめぐらした。
 そのうちの一人が前方を指差して叫んだ。
 前方に、やけにスピードの遅いジープの後姿が徐々に迫ってくる。
「やけにノロノロ運転だなぁ、オイ」
「随分走ったからガス欠なんじゃないのか?」
「成程なァ。まァとりあえずとっ捕まえて戻ろう……」
「おい、見ろよ」
 同僚達の会話を遮って、助手席に乗っていた男が双眼鏡から目を離した。
「あのジープ、誰も乗ってねぇぞ」

 ドォン……。

 地響きと爆音を伴って、そのジープが炎上したのは、それから数瞬後の話。


            *


「そろそろ爆発した頃だな」
 煙幕を張ったあとジープから飛び降りた二人は、岩壁に隠された扉から、隠し通路に入った。
 レイは、先程から不思議そうに暗い岩壁を見回している。
 ハルトが言うには、この道も盗掘者の間だけで知られている通り道なのだそうだ。
「……また足がなくなったんだけど」
「ああ。またフレアにどつかれるな」
 あの短時間に時限爆弾と自動運転をセットしたハルトの手並みには感心してしまうものの、毎回毎回足を失うのはいただけない。
「いいだろ、あいつらの注意を引けたんだし」
 どこから取り出したのか、ペン型のライトで前方を照らしながら、ハルトは前を見たまま平然としている。
「さっきの花火は?」
 物を大事にしようとは思えないのか。
 確かにああする以外切り抜ける方法はなかっただろうが。分かってはいても、いつもながらの強引なハルトのやり方についていけない部分を感じるレイである。
「ああ、フレアだ。調べものが終わったっていう合図だろ。こっから抜けた先の別の町の酒場で待ち合わせてる」
 今更になって、ジャンヌが残した切り傷がひりひりと痛み出した。
 咄嗟のことであの時はよく分からなかったが、思い返せば随分と大胆なことをしていたような気もする。
 ジャンヌに刺されていたかもしれないし、何より弾丸で蜂の巣にされていたかもしれない。
―――お前はぶち切れると何するかわかんないからな。
 さぁっと血の気が引く音と共に、いつだったかハルトに言われた言葉が蘇った。
「……オイ、なに落ち込んでんだ?」
 ハルトが肩越しに振り返ると、壁に片手をついてがっくりとうな垂れているレイが見えた。
「自分の無謀さを嘆いてるんだ……」
「落ち込んでるトコ悪いけど、もう出口なんだ」
 言うが早いか、ハルトは目の前の壁を押し開いた。暗闇に慣れた瞳孔が、差し込んでくる光に鋭い痛みを伴って収縮した。
 赤と緑。どちらも色素の薄い瞳は、余計痛みを受け入れる。
 出た先は、見知らぬ町の路地裏だった。


            *


「酷い格好ね……」
 待ち合わせた酒場に入るなり、フレアのげんなりした顔に出迎えられた。
 そこで二人は改めて自分の格好を見直す。
 服は至るところが破け、そこかしこに切り傷擦り傷。それに伴い滲む血。
 ハルトに至っては、激しく殴られた右頬が紫色にはれ上がり、口の端からは血が伝っている。
「男前だろ?」
 にやりと笑って見せた直後にイテテ、と口元を押さえるので、まるで格好がつかない。
「二人して、何だかケンカしてきた悪ガキみたいだわ。ま、とりあえず座りなさいよ」
 勧められるままにハルトとレイはテーブルに着く。
「はいこれ」
 近づいてきたウエイターを軽く手をあげて押し戻し、フレアは、机の上に分厚い聖書を置いた。
「気を引き締めて聞いてね。特殊ケースに入れられていたから、正式な年代は割り出せないみたいだけど、大体9千5百年前のもの」
「9千5百……」
「考古学をかじってるハルトなら分かるでしょ。この星に人類の生存が確認されたのが約9千年前。それより前ってことよ」
「つまり……?」
「この星のものじゃない。どこからか持ち込まれたものなんじゃないかって、親父さんは言ってたけど」
「"箱舟"に乗ってきた……ってことか?」
 ハルトが、思わせぶりにレイに視線を送る。
 この間目の当たりにした"ガイアズメール"の、苔に覆い尽くされた外観と、緑色の内部電源に照らし出された機械。
 あそこの中に?

 手にした""聖書"をぱらぱらと捲りながら、ハルトは、赤い二重線で消されている名前をなぞる。
 "イエス"。
 何故この名前を消す必要があったのか?

―――例えばこれが、昔の本物の聖書だったら?
―――誰かがこの聖書を元に、今の聖書に作り直したんだとしたら?

 例えば。
 "ガイアズメール"でこの星に辿り着く前に。これが本物の聖書であったとしたら。
 今の"教会"はこれを元に、教義を正して作り直したものなのか。
 一体何のために?


「そう言えばあんた達、徒歩できたわけ? 車は?」
 じっと聖書に視線を落としているハルトとレイに、思い出したようにフレアが声を掛ける。
 頭の内側で。さぁっという音を二人は聞いた。
 血の気が引く音。
「あの……その……」
「……ちょっと、アクシデントがあってだな……」
「まさかあんた達、あたしがせっかく用意した車を……」

「おい、荒地のはずれの方でジープが一台爆発したらしいぞ!!」
 最新ニュースとばかりに駆け込んできた男の声に、三人はぴしりと固まった。
 氷のようになった二人が恐る恐る顔を上げると、あまりにも静かな笑みを湛えているフレアの顔が見えた。
「……へぇ、そぉ。派手に火柱上げてくれたのね。今度はなにで払ってくれるの?」
 額には綺麗に青筋が浮かび上がっており、それが時間と共に分裂して増殖する。
「フレア、落ち着け、俺が悪かった……」
「煩い!!」
 がっしゃん、と音を立てて円卓がひっくり返った。
 グラスやらボトルやらが床に落ちて派手に割れ散った。
「フレア姉さんがまた暴れてるぞ!!」
 酒場の方々で声があがり、店員だけではなく客までがフレアを押さえにかかる。
「……フレアお前、相変わらず酒癖悪すぎ……」
「ハルトあんたねぇ、キツネの罠に足挟めて身動き取れなかったあんたを助けてあげたのは誰だか分かってんの!? あそこで私が通りかからなかったら、あんたはあのまま干からびた干物になってたんだからね!!」
「キツネの罠……?」
「レイ、今はそこにこだわってる場合じゃないぞ」
「あたしが折角……、ぅ……」
「うわ、フレア!!」
 仁王立ちしていたフレアが、両手で口元を覆ってふらふらと前のめりに倒れた。
 それを慌ててハルトが抱きとめる。
「吐く〜〜……」
「ま、待て止めろ!!」
「ハルト……どうするんだ!?」
 フレアを肩に担ぎ上げ立ち上がるハルトを、まだ床に座ったままのレイが見上げた。
「その聖書持ってついて来い! とりあえずはこいつを家まで送ってからだ! マスター! 払いは明日で……」
「明日でいいから、早くフレアを連れて行ってやってくれ!」
 連れて行ってやってくれ、などと優しい言葉を使っているが、「早いところ連れて帰れ」と同意語だろう。
 どうやら、フレアに色々と痛い目に遭っているらしい。
 マスターや常連らしい客の顔色を見れば、それは比を見るよりも明らかだった。
「ハルト〜……吐く…ぅ………」
 肩の上でぶらぶらしながら、フレアが蚊の鳴くような声を出す。
「煩い! 大人しくしてろ!」
 畜生、こっちだって怪我人なのに……。
 あちこちの擦り傷きり傷や、殴られた鳩尾、切った口が、今になって痛みの大合唱をしだした。
 聖書と自分達の持ち物を抱えたレイを連れ、ハルトはその酒場を後にした。


            *


「ハルト」
 人の多い繁華街を過ぎ、少し寂れた住宅街に踏み入れたところで、レイが口を開いた。
「ん?」
 先を歩くハルトは、フレアを抱えたまま、振り返らずに返す。
「教会で、ストーンさんに会った」
「ストーン? あの?」
「そう。神父を刺した人。後任の神父をしてたよ」
「……そうか」
 迷いのなかったハルトの足取りが、一瞬だけぴたりと止まり、また再び進められる。
 ただそれだけの動作で、ハルトの心に走った動揺がどれほどのものか、レイには分かった。

「ハルト」
 しばらく黙って歩いた後、再びレイが切り出す。
 今度は、ハルトは何も返さなかった。

「宗教って、なんなんだろう……?」

 許し。癒し。支え。
 救い。

 数々の言葉に置き換えられる、"宗教"という名の存在。
 一体それは、どのような形をしているのだろう?

―――聖書や十字架がなくても、人は救える。

 宗教がなくても人を救えるなら。一体何のために存在するんだ。
 その存在ゆえに争い、苦しみ、悲しみ。
 傷つけあうのに。
 救いと悲しみの諸刃の刃。

「今は、考えるのやめよーぜ。明日からだ。今日はもう疲れた」
「……そうだね」

「…………ん……、ヴィー……グ……」
 ハルトの肩の上から、途切れ途切れにフレアの声が漏れた。
 優しい響きのその声は、静まり返った街並みにすぐに溶けた。


 愛を叫びながら、容赦無く傷つけあう。
 宗教とはまるで。


 人間そのもの。










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